2015年7月1日〜15日
7月1日  ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 これで、と言われても、放っておくわけにはいかない。
 廊下を駆けていく彼に、当然ついていく。

「来るな! ついて来るな!」

 誰かに見つかったのだろうか。おれは背後を気にしつつ、マーチンの後を追った。
 マーチンはトイレに駆け込んだ。

(なんだ、トイレか)

 だが、自殺の現場もトイレだった。
 一応、トイレをのぞくと、彼は個室に入っていた。中からシクシク泣き声が聞こえる。

「マーチン?」

 マーチンが泣きながら怒鳴った。

「来るなっていっただろ。これだよ! だから死ぬんだ!」


7月2日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 マーチンはトイレの壁ごしにやっと話した。

 長期間ずっとおむつをさせられ、もうトイレが我慢できなくなってしまったのだと。おもらしするのを主人は楽しんでいるらしい。

「CF側が注意してくれて、おむつをつけさせたけど、今度、ジムに行けっていうんだよ。おむつ姿をみんなに見せろって。もう耐えられない」

「……」

 客には、たまにこういう規則を守れないバカがいる。ヴィラという町のすべてが露出プレイの遊び場だが、CFだけはちがう。ここだけは聖域じゃなくちゃいけない。


7月3日  ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 おれはCFのスタッフに相談に行った。

「ああ、マーチンね」

 相談役はすでに彼を知っていた。

「われわれもご主人様のエン氏には抗議したんだがね。主人が犬の健康を思って、ジムに行かせるのは、それだけ見れば自然な要求なんだよ」

「ジムのスタンプだけもらえる?」

「不正になる。認められない」

「……マーチンがおれを殴ったら、CFに来れなくすることはできるかな?」

「事実ならそうなるが、きみのご主人を巻き込んでの騒ぎになるぞ。エン氏は声のでかい男だからな」

 うーむ。


7月4日  ヒロ〔クリスマス・ブルー

 おれは正当な飼い犬というわけではない。飼い犬のコンパニオンという一段下がった身分だ。あまり伯爵に嫌われるわけにはいかないのだ。

 しかし、どうしたものだろう。マーチンの主人は直談判がきく相手とも思えない。そんなやつなら、とっくに規則を守ってる。

「ヒロ、まただぞ」

 中庭で飯を食っていると、マキシムが知らせてきた。

「トイレのドアノブで首吊ろうとしたらしい。ルノーが見つけて、今、救護室だ」

「!」

 油断も隙もない。


7月5日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 救護室にいくと、マーチンはすでに帰されるところだった。
 あごの下が赤くなっていたが、命に別状はないようだ。

「マーチン、大丈夫か」

「……」

 マーチンはろくにおれを見ない。

「おまえさ。これだけ失敗するってのはアレよ。守護天使のお力がスゴイんだよ。生きろって言ってるってことじゃないのか」

「おまえはウソつきだ」

 マーチンは冷たく言った。

「痛くない死に方を教えると言って、説教するだけ。そういうのはもう何千回とココでやってんだよ!」

 彼はピストルのように人差し指で頭を指した。


7月6日 ラインハルト〔ラインハルト〕

 おれはあやまった。

「そうだな。言ってなかった。ミリオンダラーベイビーで見たんだ。痛くない死に方は、静脈に致死量のアドレナリンをぶちこむことだよ」

「……アドレナリンってどこで手に入る?」

「病院だな。厳重管理してるから、交渉は難しいな。手っ取り早く、手に入れるとしたら――」

 マーチンがおれをじっと見ていた。
 少し寒気がした。この目は本当に半分、死んでいる。

「運動だ」

「――」

「死ぬほど筋肉動かして――」

「ジムに行けっていうのかよ!」

「いや、そうじゃ」

 ぴこーん。閃いた!


7月7日  ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

「ひと月待て」

 おれは彼に言った。

「ひと月おれの言う通りにしてみてくれ。そしたら、アドレナリンを手にいれてやる」

 マーチンの目が怪訝そうに見た。

「きみの問題は、要はおむつにもらしちゃうことだろ。だから、もらさないように筋力を鍛えるんだよ。トレーニングしなおすんだ。そしたら、トイレでパンツに履き替えて、ジムに入ればいいじゃないか」

「……」

 マーチンは、できないよ、と言ったが、少しその声には迷いがあった。

「やってみるんだ。ダメなら、アドレナリンはなんとかする」


7月8日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 彼と別れてから、おれはあわてた。
 えらい約束をしてしまった。

 家に帰ってすぐに、アクトーレスのジョニーに電話して聞く。

「筋力トレーニングって、ひと月でなんとかなるもの?」

『?』

 おれは逆トイレトレーニングされた犬のことを話した。

『うわ、そういうのに手を出すなよ。主人はそれ用に躾けてんだぞ』

「何言ってんだ。この野郎。アレは半分死体だぞ!」

 さすがにアクトーレスは鈍感だ。おれがギャンギャン言うと、

『まあ、ひと月あれば、なんとかなんじゃねえか。でも旦那は妨害するぜ』


7月9日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 おれはマーチンに言った。

「極力、小便を我慢するんだ。1分……いや、30秒でも、いや十秒でもいい。十秒我慢したら、その分、筋力がついてる。もらしちゃっても気にしない。次またトライだ」

「……」

 マーチンは浮かない顔だが、一応聞いている。

「つらかったら、最初は5秒でもいい。手でつまむのはナシだぞ。あくまで筋トレだから」

「……8月になったら、くれるんだよな」

「あげるから! アドレナリン、手にいれるから! だからやって! 死ぬほど努力して!」


7月10日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 翌日、マーチンを探したが、彼はおれを見ると、すぐ泣き出した。

「ダメだよ。だって、前から我慢してたんだ。我慢しようったって、きかないんだ」

「ケツも?」

「――そっちは出ないけど、前はホースみたいにバカになってて」

 OK、OK。おれは彼をなだめた。

「じゃ、いいか。ケツを締めるんだ。そうすると、自然に前も締まる。それで完全に止まらなくてもいいから、出が悪くなったら成功と思って、やってみよう! トライアゲイン!」

 すべてデタラメ医学。何言ってんだ、おれ。


7月11日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 翌日もマーチンは泣いていた。旦那に大量に水を飲まされたらしい。

「小便が止まらないんだ。我慢しようと思えば、思うほど何度ももれるんだ」

「想定済みだ」

 おれは彼の肩を叩いた。

「そういう妨害はあると予想して、おれはひと月と設定したんだ。ノープロブレム。今日は思い切って出す日にしよう。我慢せずに出したまえ。むしろ率先して出すんだ」

「……」

「我慢はできる時にやるんだよ。少しずつ成功体験を積み重ねていこう」

 我ながらよくもまあ、適当言えるもんだ。何者だ、おれは。


7月12日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 最初は会うたびに泣いていたマーチンだったが、一週間もしないうちにひそひそと言った。

「今日、ちょっとだけ我慢できたんだ。ほんのちょっとなんだけど。二秒……ぐらい?」

「おめでとう!」

 おれは大げさに彼の肩を叩いた。

「いいか。ゼロをイチにするのが大変なんだよ。その一歩はアームストロングより偉大な一歩なんだ!!」

「――」

「でも、言っておく。かならず、揺り戻しがある。その時は必要以上にガッカリするな。そういうもんだと淡々と行こう」


7月13日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 マーチンの耐久秒数は、わずかながら毎日、伸びていった。
 おれは彼の報告を聞くたびに、どこの熱血コーチかと思うテンションで彼をほめ、ナゾ理論をぶちあげて彼を励ました。

 なんの知識もなかったが、おれはできると思った。
 幼児だっていつかはトイレをおぼえるのだ。いわんや、わんこをや。

「十秒以上はダメだよ」

「それが十秒の壁ってやつだ。皆苦労する。ある日突破してるよ」

「……なあ、それ適当言ってない?」

 マーチンはあやしんだが、その声は前よりやわらかかった。


7月14日  ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 マーチンの我慢が30秒に達した。おれは彼を抱きしめた。

「よくやった! すげえがんばった!」

「やめてくれ。恥ずかしい」

 マーチンはそう言ったが、頬が高潮していた。おれは涙ぐみそうになった。30秒我慢できれば、あとは一分、二分はすぐだ。二分あれば、トイレに駆け込める。パンツ生活に戻れる。

「1分いけたら、祝いにパンツ買いに行こうぜ。おれの小遣いから出しちゃう。ブリーフ派? ボクサー?」

「え、おれは――」

 マーチンとパンツ談義になった。
 よかった。夜明けは近い。




7月15日 ヒロ〔クリスマス・ブルー〕

 だが、どうしたことだろう。
 30秒が45秒になり、50秒という報告を聞いた後、マーチンはCFに来なくなった。ぷっつりと。

(1分に期待をもたせすぎたかな)

 1分いけなくて、落ち込んでしまったのだろうか。1分も50秒も変わらない。トイレに駆け込めるだけの時間が保てればよかったのだが。

(揺り戻しかな)

 30秒でもらして落ち込んだのか。
 悩んでいると、アルが来た。

「マーチンがまずい状況になってるらしいんだ」

 とんでもない事態になっていた。


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